昭和40年05月21日 朝の御理解



 何の稽古でも同じでしょうけれども、信心の稽古をさせて頂く、何を稽古させて頂き、どういうような、信心の味わいを味あわせて頂くかという事が、信心の稽古であって、ただ、信心をさせて頂いてからお願いをする事が、成就するというような事は、これは、大して稽古の対象にはならん。
 どういうような場合でも、どの位「信味」いわゆる、信心の味わいというか、いわゆる、有り難いというか、勿体ないというか、相済まんというか、そいういうようなものが、いつも絶えず感じられておるかという事。有り難いことだなあと、勿体ないなあと、本当に相済まんことであると、そういうような、信味です、信心の味わいと、それは、この味あわれるようになる為に、稽古をするのです。皆さん。
 そういう味わいを、味あわせて頂く為に何かその、病気をするとか、困った難儀なことが起きてくると、そういうような事も確かに直に、その事によって信心の稽古が出来るですけれども、それは、結局、やはり難儀な事が、楽になりたい楽になりたいという事がやっぱり焦点になるのです。ね。
 体が病気しておれば、早く全開のおかげを頂たいと、難儀な問題があれば、そこの難儀な問題から解決のおかげを頂きたいというような、あーその、やっぱり目指すところがそこになってくるから、どうも散漫になってくる。信心になりたいと、ほんに神様ちゃ有り難いもじゃある。こういうような場合こげなおかげを頂いたといったような事が信味と思うたらこれは間違いだと私は思う。
 神様ちゃ有り難いもんじゃあるということはです、そういうような特別の人間の知恵や力では出来ない事を、特別に働いてくださるから、有り難いというのではなくてですたいね。いつでも、その、自分の心の中に有り難いなと、勿体ないなと、相済まんことだなあというようなその、いわゆる信味な、信心の味わいというのはそういうような、味わいがです、朝から晩までいつでも心の中に、実感として、例えば、お腹が痛かったり、頭が痛かったりする、ね。
 頭がズキンズキンすると、位にです、私は体に堪える位神様を感じる。ね、のどが渇くときに一杯の冷たい水を頂ます時に、もう本当に、何よりもまして美味しいでしょう。ああいうような味わいがです、私共の例えば実感として、神様がああいうように迫って下さるようにです、有り難いなあと、信心チャ有り難いなあと、だからここの所を持って参りますとですね。
 信心の味わいと、そこんところの味わいでなからなければ、私は本当はお徳は受けられないと思う。難儀な時の神頼み、困った時の神頼み、よし助けて頂いてもです、おかげを蒙らせて頂いてもです、病気が治ったからです、病気のおかげを頂いたから、難儀なことが解決のおかげを頂いたからといって徳になっておらんですよ。
 それはどっちかというたら、神様の借金になっておるとじゃん。そうでしょうが、信心が出来んなりにああた、医者も治しきらん病気が治ったとか、人間の知恵、力ではどうにも出来ない問題がです、信心によって解決のおかげを頂いたとかと言うのですから、それは、いうなら、神様の借金になるようなもので、それが徳の貯金にはなっちゃおりゃしません。ね、いわば一つ、信心のいわゆる、信味にふれさせて頂く、信心の味わいに触れさせて頂く。いつも神様を身近に感じさせて頂くと。
 昨日の、夕べの御理解の中にも私申しましたように、丁度、昨日の私、午前中の奉仕をしたら、午後からは私は二時から奉仕をする。二時から四時までを私はまた奉仕をする。丁度そこ一時間あまりだれも参ってこん。ね。だからここはもう実に閑散さんとしておるわけなんです。
 その間が私はもう、とにかくここに座らせて頂いておっても、私はここであの、どんなに有り難い本だからというてここでお書物を読むのも、気がいたしませんですね。時間つぶしに、例えば小説は読むわけにはいかけん、お道の信心の新聞、いろんなもの貯まっておるんですよ、やはり来ているんですから、次から次に、ここに溜まっていくばっかりですから、時々読まんならんと思うんです。けれどもね、読むひまがないです。お取次が忙しいからではないです。もう有り難いのが忙しいと。
 もうとにかく、有り難いんです。もう、ここで奉仕をさせて頂いて、あれを想いこれを想いさせて頂けば頂くほど有り難い。それを有り難い、有り難いと思うておって私、心眼にですね、あの、お社が、こう鍵がしてある。扉が開いておるんです。して、中身が空っぽになっておるところを頂くんです。まだ、空箱なんです。いうならば。おやおや、どうした事じゃろうかと私思うたんです。そしたらですね、ね、神様が私の側に来てくださるち。空になってござる。ね。
 私がもうその、はあ本当に、お時間ば頂いたけん、有難かったとか、自分の思うごとなったけん有り難いとか、というのではなくてです、例えば、いうなら、ここでいわば閑散として、誰も参ってこない時、ただ一人ここで、いわば、つくねんとですたい。ね。講師をしておる時、それがね、有り難うして有り難うしてこたえん。本当にもう誰はばかる事なく、声を上げて泣きたいごと有り難い。そしたらね、お社の中が空になっておる。空になってござるとは、私のところに来てござる、神様が。
 私の周辺にですいわば、私の中身にです神様が入りこんでしもうてござるね。「神に逢いたいと思えば庭の口に出てみよ 空が神下が神」「神が社の中に入ったら世の中が闇になる」と仰るね、世の中が闇になる。だから神様があのお社の中に閉じ篭ってしもうてござるではないですけれども、私共が一つ拝む対象としてね、あそこに御神前をお祭りさせてもろうて、そして拝ませて頂くのだけれども、実をいうたら、私共の周辺にです、いや、私共の内容にです、中身にですその神様は入りこんでいて下さる。
 お互いの心の中に、私共の周辺には実を言うたら私共が身動きが出来ないくらいに神様がここには、いっぱい私共の周囲には働いておって下さっておるんだと。そこを「神に逢いたいと思えば庭の口に出てみよ、空が神下が神」だとこう仰る。そういうおかげを、働きを頂いておってもです、理屈の上においてはすぐに分かる事。理屈の上においては分かる事だけれども、それを実感として神様がひたひたとです、私共の周辺に働きを下さっておるということをです、感じるということは、こちらのいわば、有り難いという心をもってキャッチする外にないと言うこと。
 はあ信心とは結局どうすれば有難くならせて頂くかとね、どうすれば有り難うならせて頂くかというところに、焦点をおかせて頂いておるとです、勿体ないことだなあという神様が分かる。本当にこげな事では相済まんなあという事が分かってくるのです。そこに四六時中です、神様有り難ういわば降っても有り難いなら照っても有り難い、確かに降っても有り難いなら、照っても有り難いんですからね実をいうたら。
 それが自分のどうぞ降ります様に、照りますようにばっかり願っておるから、降れば有り難いのであり、照れば有り難いと自分の思い通りになればば有り難いのである。降れば良いと思うているのに照ると腹が立つね、照れば良いのにと思うておるのに降ると、神様は、いう事は聞いて下さらんじゃったというて、神様を反対に恨むようなそういう事ではね、いわゆる信味には触れられない、信心の味わいには触れられないと。
 ここんところがです、ね、ここんところが、私は何の稽古でも同じだけれども、教えて分からせられることもあるけれども、いくら教えてもいくら教えても、これだけは、自分が体得するほかはないという、事があるという事なんです。ね。昨日私は、もう十何日かあったでしょう。相撲が。昨日初めて初めてちょっと一時間ばっかり見せて頂いた。してあの、アナウンサーが言ってましたね何か、関取の名前は忘れましたけれど、とにかく土俵に上がっておるわけね。二人土俵に取組んでおるんですね。
 取り組んでおる時にですね、向うの足が右に、こう向いているか、こう向いておるか、右に向いておるか左に向いておるかと、目で見よらんけれども分かるというんですね、相撲取りは。向うの体制がこう取り組んでおるのから実は分からんのだけれども、いわば体で分かるち言うわけ。信心もそういうところがあるごたるですね、目には見えない、神様は。ね。けれども、体で分かると。例えば、あの楽器の練習なんかなさって方達なんかはそういうところが分かる。ね、
 私も若い時は三味線なんか弾いたから分かるんですけれどもですよ、ね、調子なら調子が分かるようになると、まあ一人前だとこう言われるのですけれども、なら、お師匠さんがです、さあ、今度は二上がりの調子ですよというて、二上がりの調子にあわせて下さってもです、はあ、それが二上がりですかという事は分かるけれども、さあ自分には分からない。なら、二上がりにあわせてみたら、その耳の通りにこちらの三味線も、合わせたら良かろうそうなもんじゃけんど、中々合わん。ね、
   (録音不良)
 これが本調子だというようにです。きちっと分かるようになる。もう、弾きよりなさらんでも分かる。ちょっと、狂うたらもう分かる。いや弾きよりなさらんでもです、さあと、あの、テレビなんかご覧になっておると分かるでしょうが。例えば、二上がりから三下がりに、調子を弾きながらパア―と替えていく事が出来る。普通にすりゃまあ、いうなら、大変な難しいことのようであるけれども、分かる
 。三味線を買うて弾かせて頂いきよる、一々こう自分の爪を、糸を抑えておるとだけは、こうやって見とらんでしょうが、ただ、締めとる間は、ここをずうっと見よりなさるけども分からんです。そるけん、つめ一つ違わんのですよ、これを私共が弾きましてもです。ね、例えば、祭員の方たちがこれだけあるのに、あそこんとこぼ、ここを、どこを押さえんならんち言うても、そこを見らんなければならんという事じゃない。もう感です。さぁっと。そこに、自分の爪を一つ、爪一つだって違っいない。
 抑えておるところが、してみると皆さん、ほら稽古をしなければいけんという事が分かるでしょうが。ここが二上がりばい、ここが、ここ何々の坪よと言うて、まあ爪で押さえられて、こう見てみりゃ分かるのだけれどもです、それが、ずうっと、ここばっかり見てからは弾かれるもんじゃない。真正面いわば見てから、こう弾きよる。それがです。爪一つ違わん位に、きちっとつぼが押さえられておる。
 そこに、良い音色が出てくるのですから、信心だって尚更の事でしょうが。いわゆる、信心の音色とは、私本当に、こんなに泣きたくなる位に有り難うなるというような、いわゆる音色がですたい。ね、そういう、良い音色を味わいたいならばです、自分で自分の心の中にです、合掌したいごたる心といったようなものを求めても、信心でなからなければならないと言う事が分かるでしょう。
 私昨日、そんな、あー、ただ今申しますような御理解を、説かして頂いて、ね、そういうようなおかげを頂く為に一つ皆さん、あの、我情我欲を離れてと仰るから、まあ、大変難しい事なんですけれでも、自分のその我情を取るということ、自分の我情を取るという事は、自分の思いを捨てるという事。そういうところにね、取組んで、自分の思いを捨てての信心の稽古にならせて頂かなければ、本当の味わいは分からない。
 いわゆる神様がどんなにヒタヒタと、私共の周辺に働きかけておって下さっておってもです、例えば頭が痛い時に、頭痛の感じるように、喉が乾く時にいっぱいの水を頂くような、ああ美味しいといったような味わいに、神様を感じることが出来ない。為に、こういう稽古をなさっちゃどうかと、いやこういう稽古をなされば、必ずちょうど神様を自分の心の中に感じる事が出来るんですよ。
 というて、今日お話をして、丁度、昨日、善導寺の原さん、ちょっと遅れられたらしんですけれども、障子の向こうからいつも、今朝の、夕べの御理解の一節を聞かせてもろうてから、ここ出てきてから仰るんですよ。「先生、もう信心の稽古ち、なにか、いつも難儀な事がなからなければ信心の稽古が出来んと思いよりましたけれども、実は、そんな事じゃないですね、今晩の御理解を頂きよると、もう、そういう信心の稽古をさせて頂く材料は、もう、沢山あるんですね」と言う事を昨日言うておられます。
 例えば私が、こういう理由ば話した。昨日、お昼にお相撲を見せて頂いた時に母がさっさと、お餅焼きよるもん。だから、私は、お持ちをさっさとつまみながら、このお相撲を見ておったのですよ。だもんですから、夕方はお腹がいっぱいで夕食が頂けないんですね、家内は、あの御食事して下さいとこういう。俺は、今日はお腹がいっぱいで食べられん。あんまりいうて、食べさせようと思うちから、そげん言うなら、今、熱かうち頂きなさいち。そげん言いよるんですね。
 あのなぜ、家内がそげん言うかというとですね、その、今一緒に食べてもらわんと後から、また、その、してやらなんわけですたい。お汁を温めたり、おかずを温めたりせんならん訳です。だから出来るだけ今のうちに、皆と一緒に食べさそうと思うてから、まあ、物言いよるわけなんです。(笑)、ところが実際、こちらは腹が太かけんで、家内の気持ちになってみりゃあ、ほんに、そんなら、いっちょ頂いてみようか思うばってん、そげん無理して、私がこれば弛めてまでと思うてから、思うわけなんですよね。
 そういう時ですね、例えば、家内がです、「お父さんご飯あがんなさらんですか」と「おい、今日はお腹が大きい」と。そうですか、「今日はあの熱い内に上がったが、美味しいですよ」と、まあそこまで位言うてもよいけれども、それでも頂かんというならですたい、心の中ではです穏やかではない。「せからしか、また後から温めてやったり、引いたりせんならんとこ、せからしか」と思うて心を汚しておる。これは自分の思いがあるからその心を汚しておるのですよ。
 自分の、そん時思いがなかったらどうでしょう。しゃっち夕方に食べさせんならんという思いがなかったら、どうでも良いという気持ちであったら、ね。これはもう本当にですね、その話を、昨日原さん聞かれてから、まあその、信心の稽古と言うものをです、しかもそれがです、信心の最高のですね、我情を捨てる稽古なのですから、これが。自分の思いを捨てると、ちょっと久保山先生こうして下さい、という時にはです。
 そうしてもらわんならんと、実際はどうでもよいという気持ちで、お願いしますと言うたらいいのじゃと言う事なんです。実にそれが楽なんです。こっちが。ね、そこの向こうにです、ね、いわゆる生きた神様がですね、その、成程、我情を捨てておればです。「我が身は神徳の中に生かされてある」といったような素晴らしい事が分かると仰っておるんですもの。ね。息子をこげな、こうさせたいと、ね。
 親がああさせたいと嫁があああってもらいたいと、そういう思いを捨ててしもうていけというのです。ね。これが我情を捨てるという事。そこに例えば息子なら息子がです自分の思い以上に、出て来てくれるというようなかん機能をを感じるでしょう。よるどんなあげんして欲しいと思いよるのにです自分が合わせんから、うちの嫁は気がつかんからとか、内の娘は横着だとかいうて、いつも腹立てとかならんと言う事なんです。
 ですから、あああって欲しいの、こうあって欲しいの、というようなその思いを捨てておけ、そこには、もう我情を捨てておけば「我が身は神徳の中に生かされておる」ところの喜びを感じる事が出来るぞと、教祖は教えておられるんです。自分の思いを捨てておくのじゃ、そこにあなたは、じゃあないとか、さあ、お父さんと言うてから、例えば言うてくれると、この辺をおかげというんですかね。
 神様のお働きちゃ恐れ入るなと、有り難いなあというところに、嫁ごにも感謝が出来りゃあ息子にも感謝が出来る。親にも感謝が出来る。そこに有り難いそこに成程神様の御神徳の中に、お恵みの中に私共があるんだなあという体験がです。いつも感じれれるようなお繰り合わせが頂けるのだという、ようなお話しを昨日私は夕べしよった。丁度そこのところを原さん聞かれたんです。そういうような思いでならばです、必ずしも難儀がなからなければ信心の稽古が出来んと言う事じゃないという事。ね。
   (途中切れ)